こんばんは!CANDY TOKYOセラピストの初(はじめ)です(*^^*)
何事も「過ぎたるは及ばざるが如し」と言いますが、心の持ち様もそうだと思っております。
過ぎた自信は傲慢に繋がりますし、過ぎた謙遜は卑屈に繋がります。
多少の自信は、最初の挑戦の段階では必要なものです。
「自分には出来る!だからやってみる!」
「失敗した!このやり方はダメみたいだ!」
「頑張って別のやり方でやってみる!自分なら大丈夫!次はいけるかも!」
そういう挑戦の繰り返しの中で力は育まれ、やがて高みに到達するのでしょう。
一方で、これが過ぎた自信、つまりは傲慢であると
「自分には出来る!だからやってみる!」
「失敗した!自分に出来ないなんておかしい!」
とか
「自分には出来る!だからやってみる!」
「成功した!やっぱり自分には出来るんだ!だからもう努力する必要なんて無いね!」
という、あまりよろしくない状態に陥ります。
勿論、僕自身もそうですが、人間である以上誰だって時々この状態に陥ることはありますから、注意が必要です。
ちなみに、こういった傲慢さの正体は自己肯定感の低さから来るものだったりするのですが、その話はまた今度の機会に。
さて、謙虚と卑屈の話。
僕達日本人は特に「謙虚であることが美徳」という価値観で教育されてきました。なので、上述した傲慢さに対しては「あんな風にならないようにしよう」と思えるものです。
しかし「謙虚であることが美徳」という刷り込みは、時として人の心を卑屈な方向へ導いてしまいます。
人前で自分の意見を主張するといった目立つ行為に、心理的ハードルを感じたりします。
目上の人に楯突くことを、それが理不尽を糾すためのものだとしても、和を乱す行為として白い目を向けられるのではと恐れます。
欲しいものを欲しいと言ったり、してほしい事を正直に言ったりすることを、子供っぽい幼稚なものだと捉えたりします。
誰かに褒められたとしても「いやいや自分なんて」と自分を過度に下げたりもします。
自信たっぷりで「私は私の事大好き!」と言える人をナルシストだとか自信過剰なんて鼻で笑ったりします。
長いものに巻かれた方が楽に生きられるからこそ、自分を主張しない方が悪目立ちせずエネルギーを使わずやり過ごせるからこそ、自分の本音を抑え込むという謙虚さが美徳とされています。
勿論、重要度がさほど高くない場では、やり過ごす為に謙虚で居るのは肝要です。
ビジネスの場で自分のやりたい事だけ貫き通すのは難しいですし、普通に雇われて仕事をやるだけなら程々に自分を抑えていた方が円滑に進みますし。
ただ僕が言いたいのは「謙虚でいれば全部上手くいく」という考えでいると、絶対に失敗するということです。
謙虚でいる事を過度に自分に求めると、目立っちゃいけない、自分を主張しちゃいけないという考えが、自分で自分を「価値の無い人間、ダメな人間、何をやっても上手くいかない人間、人に褒められる程の何かなんて無い人間」として縛る卑屈さに変容します。
その卑屈さは、嫌な事を招きます。
自分を認めてくれた人に対する依存に繋がったり。
自分を愛してくれた人を「自分を好きになるなんておかしい」と断じる人間不信に繋がったり。
「貴方が好きです」「貴方を認めます」と近付いてきた人間を信じた途端に、その人に利用されたり。
では、自信があっても鼻つまみ者だし、謙虚過ぎると不幸を招くし、一体どうすれば良いの?
なんて思うかもしれません。
結論、「何事も程々に」というのが僕の意見です。
簡潔でありながら最も困難な真理だったりするのですが。
だから僕としては
「普段は謙虚に振る舞い、謙虚に努力を重ねよう」
「だけど、自分の人生を決断する時だけは、ワガママであろう」
と自分に課すようにしました。
謙虚な振る舞い、謙虚な努力は、よく教育された日本人なら、頑張ればいけそうな気がします。
けれど、謙虚なだけでは誰も助けてはくれません。
怖くても一歩踏み出して、自分のやりたい事を世界に提示しなければ、誰も自分を見つけてはくれません。
自分の幸せは、迷ったり悩んだり間違えたりしながら、自分自身で把握するしかないのです。
「これが君の幸せだよ」なんて言ってくるのは大体押し付けですし、その人のバイアスや社会規範が多分に含まれていたりします。
自分の人生の手綱は自分で握らなければいけない。自信も謙虚も、その為の手段の一つなのです。
なんて事を普段は考えたりしてます。
まぁ、セラピストと言っても蓋を開ければ色々考えてる人間ってことなのですよ笑
ではでは!
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初
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