写メ投稿
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2024-02-11
「もう引き返せない」一
一
人の幸せは欲求の解消の果てにある。そんなこと言った友人がいた。彼の言い分ははしたなく聞こえたし、当時の初心な私には受け入れられるものではなかった。
私の幸せは好きな人と一緒に過ごして、その人と同じ大切なものを守っていく。そう信じていた。何故それを信じていたのかと訊かれると返答に窮してしまうものだった。
私はいつの間にか私だった。
今、彼はどうしているだろうか。風の噂で人妻と不倫していると聞いた。それも彼の言う欲求の解消の術なのだろうか。不倫は割に合わないようにも思えるが、自分の胸に手を当てると人のことは言えないと気づく。
今日は裕介が陽太を連れて実家へ遊びに行った。私も一緒に行くべきだったのだが、どうしても外せない仕事があるので遅れていくと言った。
義父母のことは好きだ。配偶者はお互い元々は赤の他人なのだから育ってきた家庭も違えば常識も違う。私の家では携帯電話は中学生から買い与えられたが、裕介の家では高校生になってバイトを始めてからという強い約束があった。
私が見送ると陽太は裕介の足元で私に手を振った。初めは寂しがったが、次の日には行くと伝えるとにっこりと笑ってまた明日ね、と言った。裕介も気をつけて来なよ、と私に無邪気な笑顔を見せた。
今夜、私はどんな声で鳴くのだろう。向日葵は昼に咲く花なのに、私が一番輝くのは夜なのだ。
自宅から三つほど離れた駅の近くにあるバーの扉を開くと、小さめの音量で一昔前の洋楽が聞こえてきた。
「こんばんは」
カウンターの中に立つバーテンダーは煙草の火を消して手を洗いはじめる。
「こんばんは」
私は彼の正面に座る。私から見て左側には色鮮やかな魚が泳ぐアクアリウムが設えられている。中には新顔がいた。
「何にしますか?」
バーテンダーは私の前におしぼりとコースターを置く。少し浅黒くてほっそりと長い指がそれらからゆっくりと離れていく。
「うーん…ビールで」
「あれ?珍しいね。普段ビールなんか飲まないのに」
バーテンダーはそう言いながら背後の冷凍庫からグラスを取り出す。
「今日はなんとなく…」
「そういうキブン?」
バーテンダーの目は私の心臓を射すくめた。
「そういう…キブン…」
「ふーん…なるほど」
バーテンダーが徐に唇を舐めた。
軽く汗をかいたビールグラスが私の前に置かれる。指をそっと添えると私の指が濡れる。黄金色に光るビールが私を誘う。
何を白々しい。初めからわかっていたことだ。今日、私はこのバーテンダーに抱かれる。