写メ投稿
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2025-08-06
旋律と闇と、地下の光
ギリシャ神話には、愛する人を追って冥界へと降りた詩人がいる。
その名はオルフェウス。
竪琴の音で冥界の王ハデスすらも心を動かし、
妻エウリュディケを連れ帰る許しを得た。
ただし一つだけ条件があった──
「地上に戻るまで、決して振り返ってはならない」
けれど彼は、不安に負けて振り返ってしまう。
愛する人は、再び闇へと連れ戻された。朝、目覚めると
隣の家からピアノの音が聴こえてくる。
リストの「ラ・カンパネラ」。
子供の指が跳ねるたび、音が宙に舞い
最後の最後で、ほんの少しつまずく。それでも僕には完璧だった。
ひとつひとつの音が、昨日の続きを
小さな手で紡いでいた。けれど──母親の怒鳴り声が割り込む。
「そんな弾き方じゃ意味がない」
不完全は、価値がないのか。
僕はその音を背中に受けて、会社へと向かう。今日は面談の日だった。
マネージャーと、未来の話をする日。
でも僕の心は、別の音で鳴っていた。地下駐車場の奥。
仕事中のふりをして、
スマホ越しに仲間と話す。
僕の作ったコンテンツが、今まさに立ち上がろうとしていた。
給料は半分。保証はゼロ。
でも、これは誰もやったことのない旅。「辞めていいのか…?」
その問いが胸に浮かんだ瞬間だった。──バンッ
蛍光灯が一斉に落ちた。
目の前の世界が、黒い墨で塗り潰される。
照明の音が反響し、コンクリートが脈打つ。背後に何かがいる。
生ぬるく光る気配。
振り返れば、楽だったかもしれない。
でも僕は振り返らない。そう決めていた。次の瞬間、静寂を切り裂くように、
あの「ラ・カンパネラ」が聴こえた。
子供が奏でる、いびつで、でも美しい旋律。
失敗を恐れない指の震えが、
真っ暗な空間を灯していく。僕はその音を辿って、前へ進んだ。
足元が見えなくても、確かなものがあった。
気づけば、地下駐車場の入り口に立っていた。面談室に戻る。
マネージャーが言った。
「これから何を目標にしていくんだ?」僕は言った。
「会社を辞めて、自分らしく生きていきます」一瞬、空気が止まった。
マネージャーは口を開けたまま、何も言えずにいた。
その表情を見て、なぜか心が軽くなった。「辞表は後日出します」
そう言って、ドアを閉めた。翌朝。
また、あのピアノが聴こえてくる。
小さなつまずきと、
それでも前へ進もうとする音。僕は自転車に乗る。
会社とは違う方向へと舵を切る。完璧じゃなくてもいい。
誰かの正解じゃなくてもいい。不完全でも、美しいと思ったその方角へ──
振り返らずに、ただ、進んでいく。きっと、
あの子も、そうやって音を紡いでいるのだと思う。