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  • 2025-06-18

    海と鳥居と、風の記憶

    あの頃の僕は、
    毎日、ビルの入り口で笑顔を貼りつけていた。
    入館証を受け取り、歩き、巡回して、
    今日も何も起きないことを喜ぶような日々だった。
    静かで、平和で、退屈だった。

    腰を痛めたのをきっかけに、
    少しだけ、時計の針がゆっくり回り始めた。
    空いた時間で、偶然のように出会った“誰か”。
    遠く離れた場所に住む、小さな女性。

    行くはずのない距離だった。
    でもそのときの僕は、
    心の奥でなにかがうずいていた。
    恋愛経験の浅さと、静かな冒険心が、飛行機の座席に僕を乗せていた。
    海辺の町。
    バスとタクシーを乗り継いで辿り着いた待ち合わせ場所。
    風が抜ける音と、空の色。
    近くには、ひとつの鳥居が立っていた。

    ふと見上げると、タクシーの運転手が得意げに微笑んだ。
    そして、ぐるっと回って──その鳥居の下をくぐった。
    空が、青く光った気がした。
    あれはただの陽射しか、それとも……。

    出会いは、特別でも劇的でもなかった。
    可愛らしい彼女は、まるで友達と話すように、僕に接した。
    本屋で並んで歩き、カフェで静かに座っていた。
    淡い時間。
    恋というより、まだ“物語にもなりきらない、ページの余白”だった。

    「じゃあね」と言われてホテルに戻り、
    痛みが戻ってきて、シャワーを浴びて、僕は眠った。

    翌朝。帰り支度をしていたとき、一通のメールが届いた。
    「昨日はありがとう。来てくれてすごく嬉しかった。
    今、ホテルの前にいるの。……部屋に入れていい?」

    少しして、彼女はベッドの上に座り、僕の手を取った。
    それだけだった。
    それだけで、心が溶けていくのがわかった。

    帰りの飛行機の窓から、鳥居のある海岸線を思い出した。
    あの光は、なんだったのか。
    あの声は、なんだったのか。

    「本当に届く願いは、信じた想いの先にあるの。」
    そう、風が言った気がした。

    気づけば僕は、
    毎日を守る側にいた“あの制服”を静かに脱ぎ、
    地図のない人生を歩き出していた。

    もう一度会いたいと思っても、
    あの日の場所が、どこだったかさえ思い出せない。
    でもいいんだ。

    あの日、僕は鳥居をくぐった。
    それは、世界と自分を結ぶ“魂の約束”だった。
    自由になっていいよ──
    そう言って、誰かが僕を送り出してくれた気がした。