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  • 2025-06-17

    子犬と巨神像と、見えない森

    雨の日だった。
    傘を持たずに歩いていた僕の前に、
    泥にまみれた子犬がいた。

    逃げるでもなく、吠えるでもなく、
    ただ震えながら、僕の隣を歩いた。

    その小さな命に、僕は寄り添った。
    でも、家には連れて帰れなかった。
    離れようとしたら、全力で追いかけてきた。
    僕は――泣きたかった。

    あのときの子犬は、
    「ただ、そばにいてくれたこと」が
    どれだけ嬉しかったのかを、僕は大人になってから知ることになる。

    僕は大きな会社に入った。
    夢を叶えるためだった。
    でもそこは、巨大な“要塞”だった。

    地図にもない、“ヘビースモーカーズ・フォレスト”。
    空は曇り、
    灰色の思想と決まりきった常識が
    空にまで染み出して、
    希望の光を塞いでいた。

    気づけば僕は、
    「本当の顔を隠したまま、笑顔だけを使いこなす達人」になっていた。
    誤差を許されない世界で、自分を削っていた。

    ある日、街で出会った。
    まるで異世界から来たような女性に。
    汚れていない、透明な瞳。
    自分を偽らない美しさ。

    最初は、手の届かない人だと思っていた。
    でも、なぜか一緒に過ごすようになっていた。

    そのときだった。
    僕の中の記憶がふいに疼いた。

    ──あの子犬。
    ただ隣にいただけで、全力で喜んでくれた。
    あれは、僕だったんだ。
    誰かに見つけてもらえることが、
    こんなにも嬉しいことだったなんて。

    僕は、樹海から出ようと決めた。
    でもその先には、崖、河、雲。
    逃げ道は、どこにもなかった。

    それでも、その夜。
    まどろみの中に、あの子犬が現れた。
    けれどその姿は、あの頃のままではなかった。
    薄く光をまとい、どこか気高い眼差しをしていた。

    そして彼は静かに言った。
    「古の契約で封印された“巨神像”を目覚めさせれば、
    この霧深き牢獄から抜け出せる。
    それを動かせるのは──“君の心”だけなんだ。」

    目覚めた僕の前には、まだ霧が広がっていた。
    でも確かに、心に“声”が残っていた。

    僕は立ち上がった。
    巨神像なんて、どこにも見えなかった。
    でも子犬の声が、また聞こえた。
    「自分の心に寄り添って、ハートのネジを回すんだよ」

    目を閉じて、胸に手を当てる。
    ギギギ……ギィ……
    心の奥で、小さなネジが回り出した。
    古びた歯車が、静かに息を吹き返すように。

    その瞬間、
    空を覆っていた煙が裂け、
    光の柱の中から、巨神像が舞い降りてきた。

    僕は乗った。
    もう、歯車じゃない。
    もう、誰かの夢を生きない。

    樹海の向こうにあったのは、
    自由という名の、青い空だった。

    ハートのネジは、今も僕の中にある。
    巨神像は、僕とともに空を飛んでいる。

    今日もどこかで、あの日の気持ちに手を伸ばしている。